復活33回目

6月15日60年安保40周年記念 「右も左もかかってこい!」での乱闘事件の真相、、、後編改め、、、?7月4日「新左翼運動の再生への道」レポート

  鈴木邦男(新右翼一水会顧問)さんが、又『週刊スパ!』連載のコラム「夕刻のコペルニクス」にて再度(これで4回目?)やってしまった。ジャーニーズ暴露本で有名な鹿砦社の社長松岡さんの逆鱗にふれ、謝罪、懺悔をしているのだ。ロフトプラスワンの常連や、この私のコラムやホームページを続けて読んでいる人、鈴木邦男ファンしか解らないだろうけど、2000年1月11日、プラスワンのステージで元赤軍派兵士・植垣康博さん(27年刑務所にいた)に多くの観客の見ている前で「もう、二度とこういうことはしません!」と2時間にも及ぶ植垣さんの追及に頭をたれ懺悔していたのだったし、スパ!編集部の河井担当部員も涙ながらに謝っていたのが昨日の様に思い起こされ、鈴木さんの申し入れにて「1年間は謝罪のためプラスワン出演を自粛する」と話し合ったばかりなのにだ。
 もうこれは「確信犯」でしかないと思ってしまう。噂の真相の岡留編集長は「あれは鈴木さんの出版物を売る為の出来レースだよ」と言っていたのも「さすが噂真」とうなってしまった。私は鈴木邦男さんが大好きで、松岡さんやその他の鈴木さんに怒っている人たちには申し訳ないが、この事件が起こった時、新右翼一水会の重職を離れ、ますますハチャメチャになっていく、いい意味で言えば天真爛漫、人の迷惑顧みずの鈴木さんに何とも言えない「痛快さ」を感じてしまい、なぜかと言う理由はないが、ますます鈴木さんが好きになってしまう衝動を抑えきれなかった。
 おとっとと、、、これは困った! 上記のタイトルの後編を書かねばならなかったのだ。6月下旬から7月上旬にかけて、プラスワンのスケジュールは、襲撃、乱闘、混乱が予想されるイベントが目白押しだった。7月12日「噂の真相プレゼンツ」の岡留編集長の出演の日が最後であり、この日さえ乗り切れば、、、という日々をあれこれ思いあぐねながら、暗澹たる日々を過ごしていた。岡留編集長を襲った右翼(多分日本最大の組織力を誇る行動右翼)が又襲撃するという噂が充満していたからなのだが、そして、この原稿を書いている昨日もいろいろ混乱はあったが、警察権力の介入もなく、無事死人も出ず、店を閉店せず、まがりなりにも「表現の自由と言論の自由」を断固守り、ビビらず、乗り切った安堵感が一杯で、何か先月号の後編を書く意欲がなくなってしまっているのだ。まことに申し訳ないが、新左翼「戦旗派」のプラスワンでの乱闘事件の詳細や論争は、私のホームページ「おじさんとの語らい」をログって欲しい。もし、パソコンを使えない人でも、今やインターネットカフェが大抵の町には存在するわけで、使い方がわからなくっても、店員にアドレスを示せば教えてくれる訳だから、ネットを勉強する意味でも、本当に興味のある人は挑戦してほしい。
 さて、特にこの一ヶ月の間で一番緊張したのは、7月4日元反戦自衛官小西誠さんの「新左翼運動の再生への道」(社会批評社刊)の出版記念のイベントだった。ご存じの様に(知らない人は知るべきだ!)60年代から、70年代にかけて「政治の季節」の時代があって、それは日本だけでなく世界中の若者が、ベトナム戦争反対を合い言葉に「戦争と侵略虐殺」ばかりの20世紀を仕切って来たおやじ権力者に向かって反逆決起し、時代を変えるための闘いが広範に巻き起こった時代だった。多くの若者は既成の共産党や社会党を信用していなかったし、ソ連や中国が素晴らしい国だなんて思ってもいなかった連中が闘いに参加していった。勿論今の現役若手ロッカーからは想像できないだろうけど(こりゃ失礼)、時代を変える為日本が戦争に参加しないためにロッカー達もロック音楽の基本精神(こんな事は少しはロックの歴史を紐解けば理解できる)のもとギターをかき鳴らし、音楽を武器にフォークゲリラになって街頭の先頭を走っていた。今や金と名声を手にしてしまってその地位 に安住してしまっているだろう? 世界の坂本龍一氏も山下達郎氏も渋谷陽一氏も真っ赤に燃えて走り回っていた。そしてこの「若者の反乱」は圧倒的な重装備の権力の前に悲しいかな敗北し逃走していく。
 その運動の中心的な役割(リーダー)を果たしていたのが、いわゆる新左翼諸党派だった。孤立し大衆の支持を決定的に失った(72年)連合赤軍事件の凄惨なリンチ粛正事件以後、新左翼最大組織中核派と革マル派が敵対し内ゲバ殺人事件を繰り返し始めるのだ。この何とも愚かな内ゲバ事件で暗殺された活動家は100人を越え、重軽傷者は数千人にもなり喜んだのは時の権力者であった。
 私を含めて多くの「不正を憎み、時代を変えたい」と思う人たちは運動から離れてゆくか権力にすり寄って転向して行く。しかし、小西誠さんはまだ新左翼の内部(中核派)にとどまって、なぜ自分が愛する組織(中核派)がこんな事を繰り返すのか? それなりに理想の社会を夢見ながら、苦悶の十数年間を過ごす。
 そして小西さんは今年自分の所属する組織を含めて、徹底的な総括を開始する。「なぜ、大衆から見放されたこんな堕落した殺人集団新左翼になってしまったのか?」という見方によっては中核派内部批判の本を秘密裏に出版する。この本を小西さんから送ってもらって読まして貰った私はぶっ飛んだ! 私は小西さんの筋金入りの勇気に、今だ理想を捨てていない本物の革命家である小西さんに感激してしまって、何も考えずに「小西さん、この本を読んで感激してしまいました。是非、プラスワンで話しをしてください」と後先も考えずに電話してしまったのだ。
 こころよい出演承諾を貰った私はその夜、「たかだか批判ビラを配っただけで襲撃事件を起こす、戦旗派までがあんな調子だから、これは小西さんは中核派からも、革マル派からも命を狙われるに違いない」と不安に駆られてしまった。
 疑心と安危にかられた夜を過ごした次の日私は小西さんに電話する。
「小西さん、イベントなんかやって大丈夫ですかね? 命の危険があるのではないでしょうか?」
「私は平気です。新左翼をもう一度大衆に根ざした革命的組織にするにはこれしかなかったのです。私の命は革命に捧げています。確かに80年代だったら私はもう殺されていたでしょう。勿論なにがしかのリアクションはあるでしょうけど、もう中核派には私を殺す程の力量 はありません。公然面では中核派は内ゲバ終息宣言を出していますし、、、」と平然としているのだ。
 これには私も腹をくくるしかなかった。そしてイベント当日夜、何時間も続く豪雨の中、多くの若者で会場は埋まった。さて小西さんは自分の防衛隊をも動員せず、ひょっこり一人でプラスワンに現れた。私の方と言えばプラスワンを愛する常連の屈強な連中や、宮崎学さん、電脳突破党の面 々、一水会若手、右翼暗殺集団・護國團元團長の石井一昌さん、成年共産趣味(主義ではない)者同盟(笑)の人たちに応援を頼んだりしていた。言論と自由空間を守るには右翼も左翼もない!と言うのがプラスワンの方針だった。
 ちなみに、6月15日のプラスワンでの乱闘事件は左翼と左翼のゲバに右翼の屈強な連中が中に割って入り仲裁するというこれ又歴史的行為が行われたのだった。これは困った! もう原稿枚数がない。結論を急ごう!そして、イベントは暴力や薄汚いヤジもなく白熱した討論の末、成功して終わった。キザな言い方かも知れないが「言論の自由」は暴力に勝利したのだ。
 私は今、疲れ切っている。そして何の文句も言わず、乱闘の仲裁に入って、何発かの流れ拳に当たってしまった加藤梅造店長、横山伸介、斉藤友里子プロデューサーの勇気に私は誇らしい気持ちになって、彼らにも感謝の気持ちが一杯なのだ。しかし暴力を恐れず(実は恐れていたが)断固やりきって良かった!という爽快感が、感動が心地よい初夏の風と連れだって私の体を通 り抜けてゆくのを感じながら今も生きている。
        ロフトプラスワン席亭・平野 悠

トップページに戻る