第138回 ROOF TOP 2009年9月号掲載
「夏の終わりに……」

夜の時間は長く果てがない

 夜も更けた、杉並にある和田堀公園。頭上には夜のおぼろ月があって、行けども行けども静寂に包まれた公園は、暗く、緑濃く広がっていた。小さな犬を連れた老人が、ぽつんとベンチで休んでいる。分厚い木々の影から、青白い街路灯が老人と子犬をぽつんと覗いている。時折、善福寺川沿いにジョギングの人が駆け抜けてゆく。
 それは8月に入ったばかりの。とある夜のことだった。阿佐ヶ谷ロフトAの前に置いておいた、私の赤いチャリが盗まれた。鍵はかけていなかった。プラスワンや新宿LOFTのある新宿歌舞伎町では、鍵ナシでも盗まれることはなかった。ちょっと悲しかった。結構気に入っていたスポーツタイプの赤の自転車だ。2年前、コリアンタウン、新宿職安通りのドン・キホーテで買った。並んでいる中で、一番高いやつ。3万8000円だった。
 もう終電も終わっているし、自転車を盗まれた私は、ちょっと酔った勢いで阿佐ヶ谷から京王線の桜上水まで歩いて帰るつもりになった。2時間とはかからないはずだ。途中、杉並警察署の前に通りかかったので、被害届を出すことにした。
 深夜に対応してくれた警官は、とても親切だった。でも、これで自転車が無事自分の手元に帰って来るとは思えなかった。

 その日の夜、私は阿佐ヶ谷ロフトAにいて、『バーダー・マインホフ/理想の果てに』というドイツ映画の公開記念トークを聞いていた。70年代、ドイツを襲った政治の季節。日本の赤軍のように、ドイツ赤軍が崩壊してゆく話だ。
 私の大好きな足立正生監督や鈴木邦男さんがパネラーにいる。しかし、私はその映画をまだ見ていなかったため、ステージで喋っていることがほとんど解らなかった。特に、ドイツ哲学者だというゲストの大学教授の話に至っては専門用語と左翼用語の羅列で、全く意味不明だった。よく左翼文化人にあるやつだ。その大学教授が延々と喋っている。客席にいてだんだん腹が立ってきた。これでは、若い一般の聴衆に理解できるはずがない、と、私はついにキレてしまった。客席から「あなたは一体何が言いたいのか?
 全然解らない。もう少しみんなに伝わる言葉で喋ってください!」と激しく抗議した。すぐに「また、やってしまった」と思ったがもう遅い……。
 場内は若干緊張した。 司会者が慌てて「時間がないので」と言い、なんだかとても後味悪くイベントは終わった。
 今夜のイベントのなんとも煮え切らない内容と自己嫌悪、そして愛車の盗難。私は深夜、長く横に伸びきった公園をただ歩き続けた。


8月の暑い日の深夜、永福の銭湯露天風呂で。かの虫食い王者・佐々木孫悟空と西口プロレスの愉快な仲間と遭遇した。チ○コ丸出しでポーズとっているヤツも。ばかだね〜(笑)

生きるとは? ある高名な物理学者のラスト・デイズ

 先月に続いて、また哲学の話をしよう。6月下旬、突然、呼吸困難に陥って血圧が200を超え救急病院に運ばれてから、「死とは何か」など、解決しようのない難問にはまりこんでいる。
 そして、また余計な本を買い込んでしまった。戸塚洋二さんの『がんと闘った科学者の記録』(文藝春秋/2009年刊)だ。 ふっと本屋で、 「恥ずかしい死に方をしたくない」 というキャッチコピーから、目を離せなかったのだ。 戸塚さんはニュートリノ観測で世界的に有名な物理学者だが、ある日がんに倒れた。「ノーベル賞を確実視されていた物理学者が、最期の11ヶ月に綴った病状の観察と死に対する率直な心境」 と帯にあった。本を読み進めるにつれて、戸塚さんの病状はどんどん進行してゆく。がんは至る所に転移してゆき、ついには意識不明になる。
 戸塚さんの最後のプログは、家族の方が書いている。
「皆さんすでにご存じの通り、父は7月10日に亡くなりました。最後まで見守った家族としては、その壮絶な経過を記したい処ですが、 本人はきっと嫌がるでしょう。ただがんと正面から向き合い最後まで戦い抜いたと言うことは言って良いと思います」。読み終わって、ちょっとめげた。


恒例、阿佐ヶ谷七夕祭り。阿佐ヶ谷ロフトA制作の「おでんくん」下で記念撮影。元祖平野悠歓び組の面々。平均年齢45歳。左から梅造、私、増田、昼間、手前が阿佐ヶ谷店長テツオ

ある教え子との再会と「'09命の行進」

 私の教え子(?)に、Yという女性がいる。 何となくか弱そうで、純で無垢な子だった。
 出会った頃は、岡山から東京に出てきたばかりの少女だった。まだ18歳ぐらいだったと思う。当時私は、トークライブハウス・ロフトプラスワンを新宿に開店させ、「風」という店の客達による青年組織を作って運営した事がある。もう15年近くも前のことだ。Yはその会の運営委員にもなっていた。
 会員は一時期、100人を超えるまでになったが、約1年ちょっとで分解し消滅した。その会の中心メンバーの何人かは店の運営に入り、やがてロフトの社員となったものもいる。私は当然、Yの就職先もプラスワンと考えていた。みんな、プラスワンに大きな可能性を感じたから「風」の会員になったのだから、と勝手に思っていた。会が消滅してしばらくして、彼女が突然私の前から姿を消した。あとで分かったことだが、私の知らないところで、彼女はインドに旅立っていたのだった。私は彼女がインドに行ったのも、私の影響もあるのではと思っていて、どこか責任を感じていた。だから帰って来たらロフトに入れようと思っていた。
 それから3年後。彼女は私の前に現れ、「悠さん、私出家する」 と言ってのけた。 何でもインドでは、日本山妙法寺の寺院に籠もっていたそうだ。日蓮宗系で、世界各地で平和運動を展開している宗教法人だ。突然の出家宣言に、彼女のご両親は絶句したという。インドで何があったのかは知らない。私も、彼女に対して何も言うことができなかった。
 最近、そんな彼女から「'09命の行進」と題されたチラシが送られて来た。彼女はその行進の責任者の一人となっていた。日本の核施設が集中する青森県・六カ所村から東京まで、50日近くかけて歩くのだそうだ。参加したいな、と思った。

 インドでは、50歳から75歳までを林住期と呼ぶ。林住期とは、社会人としての務めを終えた後の人生の黄金期だと五木寛之さんは言う。黄金期? 本当かいな? 最近、身体がついて行かないと思うことばかりなのだが……。


8月15日作家の柳美里がプラスワンに。大好きなのだ。高須先生良くやった。偉い。前田日明さんもいい味出している。柳さん可愛いでしょ。今、大作に取り組んでいるという。期待したい

今月の米子

君の祖先は1620年、イギリスの清教徒がメイフラワー号でアメリカに渡った時、ネズミから船を守るため選ばれたんだよ。それまではただのショートヘアと呼ばれていたんだそうだ





ロフト35年史戦記・後編
第44回
90年代後半はまさにロック氷河期だった(1999年〜2001年)

歌舞伎町ロフトのセンセーショナルな出現

 1997年、武道館で行われた新宿LOFT20周年記念公演も終わり、1999年に西新宿から歌舞伎町に移転し「ロフト立ち退き問題」も決着した。
 歌舞伎町ロフトの規模は、以前のロフトの3倍以上の広さだった。その新ロフト誕生に「さすが時代をリードするロフト、面白い空間を作る」という声が聞こえたときには嬉しかった。多くの古いロックファンでもある中高年のお客さんやからも感謝された。それまでのどこものライブハウスの目線も若者しか見ていなかった。数は少ないが、今までとてもライブハウスになど来れなかった、中高年ロックファンの掘り起こしと獲得に成功したと言っていいのかも知れない。
 当時の大半のライブハウスは、ただお客さんを詰め込んで、爆音を強制的に聞かせ、一度会場に入ったらもうどこにも逃げられないのが現状だった。ただただ若者達に占拠された空間で、そこにはゆっくり酒を飲み、語ったり休んだりする場所すらなかったのだ。今ではライブハウスにバーラウンジがあるのも違和感のない光景になった。
 「これからの時代のライブハウスは、若者だけでなくちゃんと中高年が楽しめる空間が必要だ」という、我々の意識革命は成功し、全国のライブハウスに広がって行った。
 さらには、メインステージとサブステージが新宿LOFTに出現したことは、ライブの多様性を生んだ。ロックのライブにトーク番組や芸人のコントが参入したり、映画や芝居も同じプログラム内でやったり。多様な文化がロックミュージックと繋がっていった。



当時の音楽状況とロフトの先鋭的な試み

 当時の現場をよく知る、スマイリー原島氏、ロフトの小林社長、椎名編集長などに話を聞いた。彼らによると、1999年から2001年頃は、カルチャーとしては今日に至る音楽シーンにも連綿と影響を及ぼす、大きな変革の時期だったという。
 まず、インディーズのCDでもミリオンセラーを獲得するものも出て来て、結果的にインディーとメジャーの壁がなくなった。ハードなど環境の変化よりも、リスナー側の変化が大きかったのではないだろうか。
 一方で、やはり音楽を表現する場としてのライブハウスのあり方が、ガラリと様変わりした時期でもあった。ミュージシャンがライブハウスのスタッフと直にコンタクトを取り、共に意義深いイベントを立ち上げたり、後のNaked Loftにも繋がるような、カフェ・スタイルのライブハウスが頭角を現すようになる。
 そんな中、歌舞伎町ロフトのスタート以外にも、ロフトは次々と新たな時代を切り開く展開をしていった。プロデューサーやエンジニアに高額のギャランティを払う無意味なシステムはいずれなくなる、なくすべきだと読み、スタジオインパクトの設立。アーティスト自らが原盤の持つ意義の深さを学ぶべきだという発想のもとに、原盤制作システムのスタート、直流通でのCD/DVDの販売開始。『Rooftop』再編、充実化による、新たなメディアの確立(現在のフリーペーパー乱立状況から見れば、かなり早い動きだろう)。
 出来たばかりの新生・新宿LOFTの周辺でも、すぐにいろいろな動きが生まれた。webでの動画時代と対峙するため、配信用にライブ映像を収録。バー・ホールを使ったレギュラー・イベントを、出演者とスタッフの共同体制の中で模索していく………等々、果敢なトライアルをしていった。



「業界」としてはロック氷河期だった

 しかし、音楽「業界」としては、退屈な時間が流れていたような気がする。
 新しい空間をイメージして創造すること、それが私の仕事だ。だから社運をかけた歌舞伎町ロフトが動き出すと、もうここでの私の仕事は終わったと思った。後は若い奴が思いっきり面白いブッキングすればいい。
 1990年代末〜2000年代初頭の日本は、いわゆるロック氷河期に入っていた。その理由は、「CDが売れない!」という一点につきた(パソコンの発達と共に、違法ダウンロードは若い子ならもう誰でもやっていた)。1980年代〜1990年代に一世を風靡し、続々とメジャーデビューしたバンドは、どんどん契約を解除され、ロックを目指すものにとってはかなり厳しい時代に入って行った。多くのミュージシャン達の悲鳴が聞こえてきた。これではいいミュージシャンが育つわけがないと、私は日本の音楽の将来を悲観的に見ていた。メジャーとインディーの境界線がなくなってしまったことは、レコード会社や大手プロダクションの地位の低下をもたらした。新世紀に入ると多くの老舗レコード会社やプロダクションが倒産して行った。
 私の経験値を持ってしても、このロック氷河期の日本の音楽シーンの複雑さは、全く予想すら出来るものではなかった。



ライブハウスという現場に生まれた新しい潮流

 だが、ロックが飽きられたわけではなかった。ライブの動員はほとんど落ちなかった。ライブそのものは取り替えやダウンロードが聞かないからなのだろうか? 歌舞伎町に移転した新宿LOFTも、順調に推移していた。
それまでのロックミュージシャンにとってのライブハウスは「売れるまでの辛抱」でしかなかったが(動員力が増えたバンドはほとんどライブハウスには出演しなくなった)、この世代のバンドは、メジャーになってからも、ライブハウスを積極活用するようになった。地方も含めて積極的にライブハウスで対バンツアー組んでゆく。ライブハウス、野外フェス、ホールでの演奏と、それぞれのシステムに合わせて、最も有効的な方法を考えてゆくという時代になったのだ。  そんな時期に、勢いを増したり新たに誕生していったバンドも数多い。新宿LOFTでは、ハイ・スタンダードをはじめ、KEMURI、POT SHOT、ヌンチャク、スキャフル・キング、BRAHMAN、ハスキング・ビー、BACK DROP BOMBといった当時の人気パンクバンド等がロフトに出演してくれ、さらには次の時代にブレイクするバンド群もたくさんあった。後に銀杏BOYZを結成する峯田和伸のゴーイング・ステディ、モンゴル800、ディル・アン・グレイ、マキシマム・ザ・ホルモン、ムック、ビート・クルセイダーズ、NUMBER GIRL、THE BACK HORN 、氣志團、ACIDMAN、GOING UNDER
GROUND、ストレイテナーなどは、この時期に確実に動員力を集めて行った「新人」バンド達だった。現時点から見ると極めて理想的な流れで新たなロックシーンがライブハウス中心に流れて行ったのだ。


ロフトVSフジテレビ 「小倉あやまれ」騒動

 この時期のロフトには、忘れてはならない大事件がひとつある。今思い起こしても実に不思議な感覚にとらわれる。「一体なぜあんなことに怒り、悲しみ、天下のフジテレビを敵にしての闘争が出来たのだろうか?」と考えることがある。
 それほど、このロフトVSフジテレビの闘いは奇妙で、多くの連中から「そんなことで怒るなんて……くだらん……」と言われ続けた。しかし我々は最終的には、フジ重役執行役員・太田英昭氏から「謝罪文」を勝ち取ったのだ。約半年あまりの闘いだった。
 この希有でおかしな闘いは、小さなロックのライブハウスが巨大マスコミテレビ局に、「喧嘩を売った」ことがはじまりだった。運動側の意識は、「ロックを甘く見ちゃ〜いけないよ!」という事だった。
 2001年2月19日、新宿LOFTで「ニューロティカとサッチーの逆襲」というイベントが行われた。この頃、野村沙知代ことサッチーはワイドショーを中心としたマスコミからくだらないバッシングを受けていた。ある日私は、サッチーから突然相談を持ちかけられた。「平野さん、私、一度でいいから新宿LOFTでロックを歌ってみたい」。私はこの計画を面白がった。サッチーって、ひょっとしたら「ロックなオバサン」ではないのか? と思えてきた。彼女は当時、世のワイドショー族の主婦達から、散々嫌われ、毛嫌いされていたのだ。
 私はサッチーのバックバンドをやってくれるバンドを捜し求め、結局、ロフトの秘蔵っ子バンド・ニューロティカにお願いすることになった。ニューロティカは、サッチーが歌う曲と作詞を引き受けてくれた。そのためスタジオで猛練習してからのライブになった。
 ライブ当日の新宿LOFTには、NHKを除く全テレビ局が取材に来た。さらに会場は、ニューロティカファンの若者と、サッチーファンのおばさん達との奇妙な連帯の場になった。会場には20数台のテレビカメラが並んだ。サッチー親衛隊は勿論、ライブハウスに来るなんて初めての経験だ。
 あのサッチーが、「あたし/いつでもロックバカ/バカで結構/コケコッコー」と言っている姿や、派手な衣装を着てギターを弾いている姿、手を振っているステージは、とにかく全てが衝撃に見えた。ライブは私が目指した以上の効果を上げ大成功に終わった。おずおずと参加するサッチーファンのおばさん軍団と、ニューロティカの若いお客さんが、同じステージを見て、興奮し楽しんでいた。
 翌日、ライブ映像が各テレビ局のワイドショーで流れたのだが、「とくダネ!」で小倉智昭が「この若者達は、いくらもらって来たの?」と、客がみんなサクラであるかのような発言をした。これがロフトスタッフの逆鱗に触れ、その結果、「小倉あやまれ友の会」を結成しフジテレビの前をデモ行進やフジ株主総会に乱入するなど、2001年上半期の週刊誌等でも話題にもなったのだった。(以下次号へ続く)





小倉あやまれ、サッチーニューロティカ騒動ドキュメント
2月19日 新宿LOFT「ニューロティカとサッチーの逆襲」ライブ
2月20日 フジテレビのワイドショー「とくダネ!」にてキャスターの小倉智昭氏、「この若者達はいくらもらって来たの? こんな風にのれるかっていうのがあるでしょ」と暴言
2月23日 「日刊スポーツ」紙上で、阪神野村監督が小倉発言に激怒。同日午後、「野村監督まで怒っているのにロフトは何も抗議しないのか? ロック野郎は何をしているんだ!」と、ロフトプロジェクト社長・平野悠の旧友より電話
3月1日 ニューロティカリーダー・井上篤とロフト代表平野悠連署の「質問状」をフジテレビ小倉智昭氏に配達証明付きで発送
3月2日 この「質問状」が「東京スポーツ」系各紙にリークされカラー1面に掲載。タイトルは「小倉謝れ、ロックファンをバカにするな! 質問状をフジに送付」
3月8日 慌てたフジテレビ生活情報局長から電話。仲介役は高須基仁氏(出版プロデューサー)。新宿プリンスホテル喫茶室にて会談。出席者は平野悠、高須基仁、「とくダネ!」総責任者と名のる西渕憲司、織田雅彦両氏。フジ側は「小倉はフジの商品であり、いわばロボット。小倉の発言は全て私の責任であります。だから私が謝りに来ました」と西渕氏。「私たちの質問状は小倉氏に宛てたもので代理の方に謝られても困る。なんとか小倉氏に発言の真意を説明してくれるように説得してほしい」と言い続け、交渉は平行線のまま決裂。ただし最終的に、3月12日の質問状の期限までには、少なくとも「回答する・しない」など何らかの返答を通知することで合意
3月12日 質問状への回答期限。返答はなく質問状は無視された
3月15日 インターネット掲示板「おじさんとの語らい」上にて「小倉あやまれ友の会」正式発足。参加人数14名+青山力弁護士。このころからネット上の議論は盛り上がり、掲示板アクセス数は1日800カウントを記録。他の掲示板にも飛び火
4月4日 『BURST』5月号の平野連載「オヤジ達の唄を聞いてくれ!」今回の問題について詳解
4月9日 友の会、「抗議文」をフジに内容証明郵便で発送
4月14日 お台場周辺調査、小倉氏の行動調査を開始
4月19日 抗議文への「返答」が到着。代理の西渕プロデューサからのもの。「あれはジョークであったので謝る必要はなし」との内容
4月20日 「友の会」作戦会議開催。この問題を「報道被害」と捉え、ロフトプラスワンで5月17日に総決起イベントを開催し、5月20日よりお台場のフジテレビ本社周辺で「小倉あやまれ!ざけんなフジテレビ!お台場包囲行動」を開催することを決定。BRO(放送と人権等権利に関する委員会機構)への提訴も決定 4月25日 『インディーズマガジン』6月号誌上に平野インタビュー掲載
5月4日 この日発行の内外タイムス紙上に平野インタビュー掲載
5月8日 「友の会」公式サイトオープン。プレスリリース発行
5月10日 スポーツ報知紙芸能面に「フジ・小倉キャスターに500人デモ」掲載。弁護士会館にて「友の会」記者会見。東京スポーツ系各紙に記事掲載
5月19日 ロフトプラスワンで「お台場包囲行動総決起集会前夜祭」開催
5月20日 お台場ゆりかもめ公園に200人以上のデモ参加者が集結。宮崎学(作家)、二木啓孝(評論家)連帯の挨拶を受ける。デモ終了後、フジテレビロビー占拠活動に入り、警備員と大もめしたが一人の逮捕者も出さず散会
5月28日 フジ株主総会当日、株主議決権を手に入れた友の会は会場に殺到。フジテレビ株主総会は大荒れに荒れた
8月28日 「小倉あやまれ友の会」と「フジテレビ」は一通の「覚え書き」を持って合意
8月29日 「小倉あやまれ友の会」は勝利宣言とともに解散

(『Rooftop』2001年5月号〜8月号をもとに作成。一部加筆修正)


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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