第137回 ROOF TOP 2009年8月号掲載
「鬱なる日々を過ごす」

解らない原因……そんなところに苛立っていた

 先月の6月19日に自宅で倒れ、最大血圧200、呼吸困難、全身のしびれ、悪寒に襲われ私は救急車で運ばれた。こんな経験は初めてだった。検査の結果、病院から「基本的に悪いところは見つかりません」と言われ、気もそぞろに家に帰った。「こんなことが何回かあれば、私はオオカミ少年になってしまう」と、悲しく思った。それから数日、もちろん気分はすぐれず、毎日の症状が回復傾向にあるとも思えず、相変わらずベットにうつぶせになりながら、血圧も高いし、肩こりや耳鳴りや目眩も覚えながら……それなりな時間が流れていった。
 主治医は「原因はよくわかりません。更年期障害、躁鬱、ヒステリー状態……? まあ、あまり気にしないで生活してください」と言う。この状態は、私の意識を苛立たせた。今思えば、この間、結構な鬱に入っていたような気がする。会社にも行かず、昼間はほとんどベッドで過ごし、そして夜になると起き出して、夜の街を一人あてどもなく徘徊しているのが日課になった。一晩2万歩、2〜 3時間、とにかく自分にこもりながらひたすら歩いていた。


孤独の妙味、哲学の妙味

 何もしないで一人でいること。これを孤独と呼ぶ。哲学者の故・池田晶子女史によると、「私はどこから来て、私は誰なのか、そしてどこに行くのか」、これが哲学の問いの始まりだとか。そして、「自分の孤独に耐えられないということは、自分で自分を認められない。言葉を換えれば自分で自分を愛することが出来ないということ」(『死とは何か?』「孤独の妙味」より)なのだそうだ。
 私は短い間だったけれど、現代文明を拒否し一人でゆっくり考える時間を持つ境地に入り込んで見ることにしたのだ。これはすなわち外部との接触を一切絶つことが前提となる。この状態が一週間続くと、それ自体が充実した面白い結果を生みつつあるように感じて来た。病状は若干辛いが、そんな状態を結構面白がっている自分もいて、さらにはそれを冷静に観察する自分もいるようだった。初期に感じた不安はどんどんなくなっていって、時間が経つと身体が社会にさらに立ち向かう準備をしているように躍動してきた。「誰かと繋がっていたい」と、本当に思い焦がれるまで現在の状態を保ち続けていたいと思った。


まさに緑のトンネルの中をゆったり走るキハ200系機動車(小湊鉄道)

ローカル線に揺られて小さな旅に出てみた

 そうやって、今まで60数年の生活とは別のもう一つの人生と生きてみたい、人生の「change」を意識しながら、より「孤独」を感じ深化させるために──というか気分転換を計るために──千葉の田舎を一人旅してみることにした。
 行き先は、以前から行ってみたかった場所だった。千葉のど真ん中を横断するローカル線、小湊鉄道といすみ鉄道に乗って、雨模様の新緑のトンネルの中で本を読みたかったのだ。池田晶子の三部作『死とは何か?』『魂とは何か?』『私とは何か?』と村上春樹『1Q84』上下巻の4冊を持って、昼過ぎに出発。徹底的に「鈍行」にこだわって、暗い雨空の中、電車に乗った。
 千葉駅から五井駅に到着し、夕暮れの小湊鉄道に乗車した。車両はわずか2両の古びたものだった。今日はどこで泊まろうかと考えた末、温泉のある養老渓谷に宿をとることとした。沿線は、まさに緑のトンネルだった。点在する木造の無人駅舎は大正から昭和の時代のもので、「キハ200型気動車」の箱形列車はのんびり進む。  養老渓谷駅で降りた乗客は私一人だった。タクシー一台いない、シーズンオフの薄暮の駅前。駅員(駅長?)のおばさんに尋ねた。「すみません、養老渓谷温泉に泊まりたいのですが……」「そう、一人客って旅館がいい顔しないのよね」と話しながら、もう嬉しそうに電話を取っている。「で、予算は?」「露天風呂があって、養老渓谷に近くって、一番の古い旅館がいいのですが」
 私は大枚1万8000円(1泊2食付き)も出して古い旅館の客となった。一人食べる夕食もビールの味も、誰もいない広い露天風呂も申し分がなかった。渓谷のせせらぎを聞きながら本を読んでいると電話が鳴った。「お客さん、今から天然のホタルが見られる場所に案内します。参加されますか?」と言う。団体行動は勘弁だったが、ホタル見たさにそのツアーに参加することにした。ホタルが光るのは産卵時期の短い期間だそうだ。参加者はアベック2組と私一人で5人。ホタルの棲みかは渓流のせせらぎの、棚田風の田んぼだった。真暗闇に無数に飛ぶ天然のゲンジボタルの乱舞に堪能した。ホタルを見ながら突然、海が見たいと強烈に思った。  次の日私は、九十九里を訪ね、犬吠埼に泊まり、海を前に持参した本を読み続けた。


養老渓谷で、一人渓流の音を聞きながら深夜の露天風呂

銚子から犬吠埼までの銚子電鉄を走る桃太郎電鉄。これにも乗って見たかった

世界革命浪人・平岡正明さんの死

 また暗い話になる。2009年7月9日、平岡正明さんが死んだ。68歳だ。1964年頃、すなわち日本の若者達を襲った激動の政治の季節に、竹中労、太田竜、平岡正明の三人は、世界革命浪人(ゲバリスタ)と自称していた。当時の新左翼諸党派とは一線を画し超暴力革命を主張し、私たち若者の度肝を抜いた種々の行動様式を実践した。  平岡さんは、早大露文科時代には「政治結社・犯罪者同盟」を設立。その後、評論家としての彼のフィールドはジャズ、革命、政治、映画、大道芸、浪曲、落語、座頭市と多岐にわたった。
 平岡さんには、昨年3月22日に、阿佐ヶ谷ロフトAの私の企画に出演して頂いていた。

「全共闘世代 vs 自分探し世代〜この世を悪くしたのはお前だ! 」
【出演】鈴木謙介(社会学者)/森山裕之(編集者)/塩見孝也(元赤軍派議長) /平岡正明(評論家)【司会】平野 悠

 このとき場内は大荒れで、トークがこじれ平岡さんが鈴木謙介さんに殴りかかろうとし、私が 「平岡さん、おさえて、おさえて!」って乱闘を止めた場面もあった。 若い社会学者・鈴木謙介氏もびっくりしただろう。 イベントの終わりに私は、「平岡さん、血圧高いでしょ。僕もそうなんですよ、お互い気をつけましょう」って言ったのだった。ベストセラーになった『山口百恵は菩薩である』(講談社/1979年/文庫版1983年)や『ジャズ宣言』(イザラ書房/1969年/復刻版 1996年)『若松プロ・夜の三銃士』(愛育社/2008年)は私の愛読書だ。「世界革命浪人〜ゲバリスタ三人」は、これで全員あの世の人になった。一つの時代が終わったのだと思う。これで「新左翼の戦後」が終わったという気がする。

 梅雨が明けて鋭い太陽の季節がやってきた。夏は嫌いだ。私はどこか物陰にこっそり隠れて、ただひたすら紅葉の季節の訪れを待つのが精一杯だ。


平岡正明さん(左)と元赤軍派議長・塩見孝也氏。阿佐ヶ谷ロフトAの壇上にて

今月の米子

よう太ってしまって、この夏の暑さと格闘している





ロフト35年史戦記・後編
第43回
西新宿から歌舞伎町へ(1999年4〜5月) 

世にも怪しげな西口ロフトへの道

 世界一の巨大ターミナル・新宿駅西口を背に、ごちゃごちゃした雑踏を下ってゆき、大ガードを右手に見ながら靖国通りを突っ切ると小滝橋通りに入る。さらに3〜4分ほど進んだあたり一帯はかつて、エジソンやビニールをはじめ、何十軒もの怪しげな中古レコード屋が乱立していた。  この地帯は世界でも有数のレコードコレクターの集まる地域で、中でもブート屋(海賊版)が幅を効かせている。田舎から出てきた若者にとっては、ちょっとびびったりする様な雰囲気でもあった。通りの向かって右手、新宿西口レコードを見ながらもう少しゆくと古いビルがあって、そこに蛸壺の様にへばりついていた汚い地下空間が新宿LOFTだった。
 夜になると、バカでかい黄色と青の「LOFT」のネオンがさらに周辺を怪しくさせる。地下へ通じる階段の途中の踊り場で、無愛想な姉ちゃんの受付を済ませ、薄暗い階段から数々のチラシが置き場に並んだ地下に下りてゆくのは、ドキドキする瞬間でもあった。壁には何重にもロックの白黒ポスターが張り巡らされている。落書きだらけで汚い便所。市松模様の床。バカでかいスピーカー。店内は意外と狭い。入り口に周辺にたむろするパンクスを、勇気を出してかき分けて中へと進む。この怪しげな伝説の新宿LOFTの雰囲気に圧倒されて、ビビッてなかなか店内に入ることができなかったロフト初心者も多かったと聞く。


1999年3月17日。さよなら西新宿

 以前のこの連載でも触れたが、この西口にあった新宿LOFTの移転問題は4年半にも渡る立ち退き裁判での闘いの結果、ロフトとビルオーナーが和解することになった。1998年6月には、ロフトプラスワンも新宿富久町から現在の歌舞伎町・コマ劇場前に移転を完了していた。そして和解調停が済んだ新宿LOFT自身も現在の場所、歌舞伎町に移転することになった。
 バブルによる新宿都市再開発に端を発したロフト移転問題は、一時は社会問題にもなり、「KEEP THE LOFT」を旗印に、日比谷野音のイベントにまで発展していったのだが、これは元々ビルオーナー側のビル建て替えとロフト再入居(ロフト側はビル建て替えを拒否した事はない)がこじれた為に始まった運動だった。
 1999年3月17日。ついに数々の伝説を生んだ「新宿LOFT」は移転のため23年間の歴史に幕を閉じることになった。その直前の一カ月以上、様々な閉店イベントが催された。「もうなくなっちゃうんだ!」と、ハイスタや筋少をはじめ多くのロッカーや、古くからロフトを愛してくれたお客さんが駆けつけてくれ、別れを惜しんでくれた。
 最後の日はとにかく何もイベントらしいことをせず、ステージ上にはバンドセットがぽつんと置かれていた。「誰もが勝手に演奏していいよ」という意味だった。酒は誰でも訪れた人には無料だった。近隣の商店の人やレコード屋のオヤジまで、別れを悲しんで駆けつけて来てくれた。あげくには通行人やホームレスの連中が店の前で酒盛りをし始めた。まさにごった煮の、どこか乱暴なこれぞロックの世界だった。深夜になっても訪問客は絶えず、酒が足らなくなった。「隣の酒屋を起こして酒買って来い!」と、小林社長の酔っぱらった声が飛んだ。素敵なアイロニーあふれる時間が淡々と流れていった。とにかく東の空が白くなるまでみんなで酒を飲んだ。

<I LOVE LOFT>
 超満員で熱気ムンムンのLOFTが好き、ガラガラでやたら音がうるさいだけのLOFTも好き、ライブが終わったあとの真夜中のLOFTもいいね。朝日が昇って、ロッカーや、グルービー達が家路につくのを無言で見送るLOFTもいとおしい。こんなカッコいいシーンを様々な景色を見せてくる場所を、これ迄、LOFT以外では見た事がない。

お前は危険でやさしい旅人
俺はお前を身近に感じる
お前は危険でやさしい旅人
俺はお前に痛みを感じる
I LOVE LOFT
I LOVE LOFT
俺はお前の叫びを感じる

【柴山俊之】

『ROCK IS LOFT 1976-2006』(編集:LOFT BOOKS/発行:ぴあ/2006年)より転載


ROCK'IN COMMUNICATION ?揺れる会話を生み出す空間〜

 世界で初めてのトークライブハウス・ロフトプラスワンが引っ越してから、私は漂流街、摩訶不思議な異空間・歌舞伎町にハマッていた。  周囲約300メートルのこの街には何でもあった。世界広しといえど、歌舞伎町はスリルとサスペンスのあふれる最高な街に違いなかった。金と暴力、人情が交差する魔都・新宿。夢や欲望が息づく混沌(カオス)な眠らない街・新宿。かつて、一部不良の音楽と言われたロックが教科書に載るようになり、ロックは堕落したと言われ始めていた。「えっ、歌舞伎町の裏通りにロフトを作る! ロックファンはみんな怖がって誰も行かないよ」と言われた。「馬鹿を言え! 歌舞伎町こそ、まさにロックにふさわしい街じゃないか」と私たちは反論した。新しいロフトはぜひとも歌舞伎町の中に作りたかった。
 その頃はちょうど、青島都政の末期だった。西新宿LOFTが最後の日を迎えた翌月、石原戸性が誕生し、「歌舞伎町浄化作戦」によって風俗店やビデオ屋がどんどん姿を消してゆく直前。今思えば、まさに歌舞伎町が最も熱気に満ちていた時代だったのかもしれない。そんな歌舞伎町の雑踏の中に、私たちは格好な空間を見つけた。ロフトが入居する以前のそのビルの地下は、大小さまざま20軒近くの風俗店が入居していて、夜な夜なカモを狙っていた。ビルのオーナーは地下の部分の200坪を、一括して借りてくれるテナントを探していた。だから我々の要望とビルオーナーの意志は一致し、契約はあっさり成立した。
 店舗物件が決まって、ロフト首脳陣の課題は「さてどういう空間を創造するか」という一点に集中した。空間を作るということは、「場」を提供することである。場とは、音があって人がいて、人が主役になってそれが生命力となって初めて成り立つ。その人達が、主役であれ脇役であれ動いて初めて輝き出す。空間を作るためにはそれだけのエネルギーが必要だ。
 既に歌舞伎町中心部には、約700人キャパのライブハウス・リキッドルームがあった(現在は恵比寿に移転)。私たちは、ただお客さんを詰め込むだけ詰め込んでしまう空間ではなく、コミュニケーションスペースとしてのロックな空間を作りたかった。チケットを買ったら即会場に詰め込まれ、ライブが終わったらすぐに追い出されてしまう、従来のライブハウスからどう脱出するかがテーマになった。
 最終的に私たちは、「メインのライブ空間は、オールスタンディングで400?500人でいい」と決断した。そのぐらいのキャパがいわゆるライブハウスとしては限界で、それ以上はもはやただのホールでしかないという認識を持っていた。さらには、日本でロックが誕生してからの40数年もの時間の流れをも鑑み、40?50代の人たちも参加できる、ダイレクトな音がこない、ゆったりと語れる場所が必要だ、と考えた。
 ライブという表現は、どんな時代でもすぐに論議の俎上にあげられる。「今日の演奏は……あのボーカルはドラムは……」等々。鉄は熱いうちに打つ方がいい。観客同士や音楽関係者、演奏者達のコミュニケーションの場所が必要なのだ。
 こうして、メインのライブスペース以外に、バースペースとフリートーキングスペースのある現在の新宿LOFTの青写真が出来上がった。



ロックの神様・ビル・グレアムに学ぶ

 1998年12月、私はロフト工事主任のミトさん、プロデューサーの加藤梅造と共に、サンフランシスコに飛んだ。  ウエストコーストサウンドを生んだシスコで一番最初に訪れた場所は、数々の名演を生んだロックの殿堂「フィルモア・イースト」だった。この場に併設されている記念館で、ジャニスやマイルス・デイヴィス、グレイトフル・デッド、フランク・ザッパなんかに写真で対面した。
 このライブハウスを作ったビル・グレアム(1931年、ベルリン生まれ。1941年、アメリカへ移住。1991年10月25日、ヘリコプター事故で死亡)の名は、60年代?80年代にかけてロックが好きだった人なら、一度は耳にしたことがあるだろう。「……新しい文化のために、新しい会場を開くことが、社会的な武器になる。それが社会的な武器となり、社会を変革するだろう」という彼の言葉と、最後まで「LOVE&PEACE」にこだわり続けた彼を、私は忘れられない。「『なあ、今夜は誰が出てるんだっけ?』『おれも知らない、でも別にかまわないだろ? だってここはフィルモアなんだぜ』ある晩、フィルモアのトイレで聞かれた会話より」(『ビル・グレアム ロックを創った男』(ビル・グレアムほか著/大栄出版/1994年)より)。
 彼の功績は、ロックがビッグビジネスになるずっと前から、ロックという音楽が育つ場所を常に提供し続けた、ということに尽きる。ウッドストックやアムネスティ・チャリティコンサート等にロック・ミュージシャンを参加させた、歴史に残るイベントプロモーターでもあった。ロック界におけるその業績は、ビートルズにも匹敵するとも言われている。
 私達は、シスコでは毎日5?6軒のライブハウス、クラブ、ディスコ、ロックバーなどを回った。訪れたどこもで瞬間的に感じたのが、日本のそういった空間ではほとんど見かけることがない、中年や老人達がいることだった。ライブを堪能し、バースペースでは酒を飲み、ワイワイ喋りながら議論をしたりして、ロックを楽しんでいるのだ。「なんて暖かい空間なんだろう」と思った。その場全体がコミュニケーション空間なのだ。日本のライブハウスのように若い者に占拠されていることはないし、無機質な雰囲気では全くなかった。
 そんなサンフランシスコでの体験もあり、バースペース(会話空間)を大胆にとり、そこにキャパ150人の小さなミニライブスペースも作ることにした。おそらく日本で初めての、一つの店内に二つのステージがある ライブハウスの誕生だった。(以下次号へ続く)


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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