第136回 ROOF TOP 2009年7月号掲載
「梅雨の季節がやってきた」

雨の錆びた舗道を愚直に歩く

 「俺はなんとも生きるということを質の問題と考えず、量、すなわちなんとか長く生きながらえることばかりを考え続け、そして死を恐れ続けて来たのではないか?」と思うに至った。
 ある雨降る夜、新宿の事務所にいた私は突然歩きたくなって、雨の中、新宿の雑踏に出た。無表情な群衆が傘を差して新宿駅に向かうのを逆流して歩いた。
 なぜかそうしたかったのだ。今はただこの流れに逆らって歩くしかないって思った。青梅街道を中野の方に下ってゆくと神田川に出た。川沿いにただ歩いた。暗い緑の濃い道だった。雨はますます強くなる。そうするとますます意固地になって、私は激しい雨の中を歩く。
 2時間も歩いただろう。気がつくと京王線下高井戸の駅前にいた。一休みしたかった。ふっと見上げるとそこには、黄色い看板を掲げた喫茶店「poem」があった。誘われるように店に入った。
 別にコーヒーを飲みたかった訳ではない。poemに入るのは何年ぶりだろうか? 昔、阿佐ヶ谷のpoemで、いつも永島慎二がいて漫画を描いていたのを思い出した。その空間には何か本当に詩的な時間が流れていたような気がした。カウンターの中には、まるで大正時代から抜け出てきた様なおかっぱの、まぶしいくらい古風な雰囲気の若い女がいて、「いらっしゃいませ」と、これまた古風に私に声をかけてきた。 「アメリカン・ブレンディングを……」と私はキザに言った。読みかけの池田晶子『私とは何か さて死んだのは誰なのか』(09年4月/講談社)を取り出して読み始めた。コーヒーを静かに運んで来た女性が、「おまちどおさま、池田晶子ですか? 私も……」と言いかけて、ふっと黙ってコーヒーをテーブルの上に置いて去って行った。40〜50分、静かに本を読んだふりをしていた。
 コーヒーがとてつもなく美味しかった。いい女が心を込めて煎れてくれるコーヒーと、彼女が私の読んでいる本を理解している……このシチュエーションが気に入った。外はまだ激しい雨が降っていて、静けさの時間が流れて行った。

「poem」で哲学な本を読んでるふりをして気取る平野さん。

電気を消してロウソクを灯す

 6月21日、夏至。父の日。誰が言い出したか「キャンドルナイト」の日だ。出発点は、スローライフとエコライフらしい。1年のうちで春分・夏至・冬至は太陽と地球の位置関係が特異な状態になることから、太陽エネルギーがとりわけ地球に降り注ぐ日として、昔から多くのスピリチュアルな人たちに特別な日として意識されている日なんだそうだ。
 インターネットで調べると、20〜22時まで2時間、「自分の気持ちを改めて感じ直す一夜」とし、瞑想やヨガをするとか。いろいろな癒し系のイベントも各地で開かれていたりしていて、「頭上に燦々と光り輝く太陽を思い浮かべて……」なんて書かれている。
 この日は、朝から霧雨が降り続いて湿気の多い日曜日だった。私は私で、もっと違ったそれは複雑な感情の境地に入り込んでいて、「死とは何か」「死の意味」なんていうことを考えていた。一人部屋でぽつねんと、その2時間を3階の自室から世田谷の郊外夜景を眺めながらローソクだけで過ごしてみた。なぜそんな境地に陥ったかというと……。
「もういつ死を宣告されてもおかしくない年になってしまった。残された人生をどう過ごすべきか……」と観念の世界に入っていき、そこから何かをつかみ取ろうと必死になっている最中……。


キャンドルナイトの日、スローライフ&エコライフにのっとってロウソク一つで20〜22時までを過ごす。なかなか良いものです。君も挑戦したらいかが?

一夜の大騒動……あれは一体何だったのだろうか

 金曜日の夕刻だった。会社にARBのドラマー・キースが来ていて、一緒に夜飯を食べる約束をしていたのだが、突然目眩がして気分が悪くなり、申し訳ないが食事はキャンセルして早めに事務所を出た。「なんだこの気持ち悪さと浮遊感は……」と思いながら足が地に着いている感覚もなく、早く横になりたいという気持ちで、5時過ぎの帰宅ラッシュの中を自宅に急いだ。
 家に着いて、さらに立てないほど気持ち悪くなった。めまい、耳鳴り呼吸困難、全身のしびれが酷く歩くことも出来ず、ベットに横たわった。
 血圧を測ってみると、なんと上が200を越えていた。「これはやばい」と思った。ベッドに横たわって安静にしているのだが、呼吸は苦しくなるばかりだ。耳鳴りも動悸も激しい。しだいに息も出来ないくらい苦しくなってきた。ついに恐れていた「高血圧から来る心筋梗塞か」と観念もした。もう7〜8年も前に「高血圧症」と診断されて、それから毎日降圧剤を飲んでいる。しかしなかなか思うように血圧は下がらず、副作用の症状にも悩んでいた。脳梗塞で倒れ、半身不随になってよろよろと杖をついて街を歩く人々の姿が頭の中を駆けめぐった。
 なんとか携帯電話を探りあて、主治医に電話を入れて症状を話すと、「救急車を呼んで東京医療センターに行ってください」と言われた。階下にいるかみさんに救急車を呼んでくれるように頼む。薄れる意識の中、パニクるかみさんが119番に連絡しているのが聞こえた。その後、遠くから救急車のサイレンの音がかすかに聞こえた。私の書斎は3階なので、搬送の為に消防署のはしご車までもやってきたらしい。家の前は赤いランプをくるくる回した救急車と赤い巨大な消防車が並んだそうだ。
 救急隊員の「平野さん、聞こえますか?」という呼びかけがかすかに聞こえる。ほとんど無意識状態の中、救急車で目黒の救急病院に運ばれた。
「もう大丈夫ですよ、病院に着きましたから」という声がした。治療室に運ばれたらしい。自分では病院に着いたのすら解らなかった。ニトロの錠剤を口に入れられ、酸素マスク、CTスキャン、心電図、採血、何本かの注射を打たれ、あとどんなことをされたのかも解らなかった。「血圧200……」と言う看護師の声が聞こえた。全身のしびれと悪寒、浮遊感は止まらない。呼吸も苦しい。
 ……病院に運び込まれて約1時間後、検査の結果が出た。「CTにも心電図にも異常は認められません。血圧も150に下がっています。今入院の必要はありません。このまま自宅に帰って結構です。あとは主治医と相談してください」。付き添ってくれたかみさんと医師の会話が聞こえ、私の意識はどんどん正常に戻って行った。私の意識はとても複雑だった。「これだけ大騒ぎをして、みんなに迷惑をかけた。あの騒ぎは一体何だったのか? 悪夢か?」と、罪の意識(?)にうろたえた。医者は「多分精神的なものでしょ。プレッシャーのない生活を心がけてください」と言う。「おりゃ〜オオカミ少年か? おら〜嘘なんかついていない。ホントに血圧が200を超えて苦しみ抜いたのに……。でも多分、誰も理解してくれていないんだろうな」って思ったら本当に悲しくなった。泣きたいくらいだった。


今月の米子

おっ、なんとも凛々しい米子(4歳・アメショー・メス)だ。大きな頭に中ぐらいの耳、丸みのある大きな目。たくましく、性格がよく、そして美しい。首筋の縞(しま)はネックレス、肩から胸前に描かれた模様はシルエットのよう。……うひひ……ここまで誉めれば米子も文句はないだろう。





ロフト35年史戦記・後編
第42回
怒濤の新宿LOFT20周年記念イベント-2(1997年)
「ライブハウス新宿LOFTが歩んだ20年」

 新宿LOFTがオープンして20年が過ぎた1997年。その20周年記念イベントを、当時、日本のロックの殿堂と言われた日本武道館(収容キャパ約10000人)でやりたいと小林茂明小林茂明(現ロフトプロジェクト代表取締役・当時の新宿LOFT店長)は言い切って周囲を驚かせた。この時代、数年あまりの間にロックシーンは大きく変化していた。80年代のストリートを席巻したロックは市民権を得て、メジャーな存在になった。人気ロックバンドが増え、ロックのレコードセールスが伸びた。その肥大化するロックを一番の底辺で支え続けるライブハウスそのものも、より若者の身近になった時代と言えるだろう。そんなロックの歴史に携わり続けて来た小林茂明に、当時の音楽状況と新宿LOFT20周年記念武道館公演の有様を独白してもらった。


1966年6月のビートルズ来日公演以降、“ロックの殿堂”と謳われるようになった日本武道館。1997年7月24日、この武道館が新宿LOFTになった

10周年の時を越えるイベントをやりたいと思った

 新宿LOFT10周年の時は、新宿厚生年金会館ホールで“GO! GO! LOFT!!〜10th ANNIVERSARY〜”をやったから、そこから10年経った20周年の時はそれを超えるイベントをやりたいと思いましたね。10年経ったぶんだけ日本のロックの歴史も加算されているわけで、成熟の域に達してきた頃でしたから。
 新宿LOFTが20周年を迎えた1996年頃というのは、ロックがビジネスとして成立して、シーン全体も混沌としていたんですよ。ライブハウス冬の時代が過ぎて、ハイスタを筆頭にメロコアが台頭してきた後ぐらい。あらゆるジャンルが混在して面白い時期ではあったんですけどね。
「一介のライブハウスが、あれだけの面子を集めてロックの殿堂である日本武道館でイベントを開催するなんて凄いね」と未だに言われることがありますけれど、ライブハウスとの関わり方は別にしても、今は今で武道館クラスのアーティストが育ってきてますから、やり方次第では現在も実現可能だと思いますよ。
 僕としては、20年に及ぶロフトの歴史を彩ったキャリアを積んだアーティスト、その時点で勢いのあるアーティスト、そしてポテンシャルの高いこれからのアーティストを同じステージに立たせたいという思いが、まず大きな主題としてあったんです。大御所から新進気鋭のバンドまでが、同じステージに立ってもらうことに深い意義があった。言ってしまえば、布袋(寅泰)君に出演してもらえれば即ソールド・アウトになってしまうじゃないですか。でもそれじゃ何も面白くない。散在するロックの「点」を、一本の太い「線」として繋げるのが新宿LOFTの役目だと思っていたし、それを果たせるのが新宿LOFTの20周年という大きな節目なんじゃないかと。

あの頃は今のロフトプロジェクト黎明期だった

 新宿LOFTが西新宿の地下室を飛び出して、全国の至るところでイベントを行う伏線はそれ以前にもあったんですよ。
 10周年の新宿厚生年金ホールもそうだし、1989年と1990年には“LOFT CIRCUIT”という初の全国展開のイベントがあった。ニューエスト・モデルやメスカリン・ドライブ、グレイトリッチーズやポテトチップス、スピッツといった当時のロフトを盛り上げてくれていたバンドが全国を回って、各地でロフトの熱気をアピールするという趣旨でした。当時リリースしていた『ビデオ・ザ・ルーフトップ』(『ルーフトップ』のビデオ・マガジン)を広める意味合いもそこにはあったんですけどね。
 1991年には烏山ロフトのオープンから20周年ということで、“GO! GO! LOFT〜20th ANNIVERSARY〜”と銘打って、野音を皮切りに川崎クラブチッタや渋谷公会堂でもイベントを打ちましたね。世のバンド・ブームが絶頂期の頃で、個人的にはスリリングな経験ができて面白かったですよ。立ち退き問題で揺れていた1994年には“KEEP the LOFT『で で で 出てけってよ』”を野音でやりましたし。その後にロフトとチッタでやった“KEEP the LOFT〜PROPAGANDA SIGNAL〜”というイベントもありました。これはG.D.FLICKERSのJOEが中心となって企画から制作まで携わってくれたんです。本当に有り難かったですね。そんな下地があっての新宿LOFT20周年だったんですよ。
 その少し前の1994年には、ピンクムーンというプロダクション部門を立ち上げて、翌年にはタイガーホールというレコード・ショップをオープンさせて、店のブッキング以外にもいろんな音楽事業を展開していった頃で、僕自身とても刺激的な経験をできていたんです。武道館でイベントを打った年にはロフトレコードというレーベルも始めましたし。今のロフトプロジェクト全体の黎明期に当たる時期と言えますね。


新宿LOFT 20周年記念イベントのポスター。デザインはARBのアートワークでも知られる鬼才・サカグチケン氏。“ROCK OF AGES 1997”というサブタイトルは実行委員のスマイリー原島氏が命名したという

ブッキングは自分の持ち得る熱意やコネクションをフル稼動させた

 “ROCK OF AGES 1997”というイベントを武道館でやる構想は、企画を立ち上げた当初から揺るぎなくありました。この間も福山雅治がデビュー20年目を記念して武道館でライブをやってましたけど、ロックに魅せられた人間にとっては今も昔もひとつのシンボリックな聖地ですから、武道館は。ロフトのようなミニマムな発信基地と相反する場所であえてイベントをやる面白さもあると思ったし、武道館を日本一大きなライブハウスにしたかったんです。ステージをロフトと同じように市松模様にしてね。
 ただ、もちろん壮大な企画だったので、企画の立案から実現まで2年弱は掛かりました。武道館だけではなく、その前に下北沢SHELTERで5日間のプレ・イベント、新宿LOFTで20日間にわたるイベントも開催したんです。ロフトとシェルターで表現したかったイベントもたくさんありましたからね。  武道館で開催した“ROCK OF AGES 1997”を組み立てるにあたって一番苦労したのは……、やっぱりブッキングですかね。その辺はホットスタッフのサク(桜井直己)と鈴木太五、スマイリーズのハメチ(原島宏和)、ARB OFFICEの藤井隆夫さん、当時の新宿LOFT店長だったマリモ、同じく下北沢SHELTER店長だったヘイスケこと平野実生といった実行委員の面々で詰めていきました。
 僕がロフトに足を踏み入れたのは新宿LOFTからですけど、それ以前の、烏山、西荻窪、荻窪、下北沢のロフト各店に出演されていたアーティストにも声を掛けたんですよ。それこそ坂本龍一さんだったり、山下達郎さんや竹内まりやさんだったりね。ただ、日本のロック・シーンに一石を投じた面々は、いろいろと条件的なこともあって都合がつかなかったんです。悠さんはその辺りが面白くなかったのかもしれないですけど(笑)。
 やっぱりひとつのイベントとしてもちゃんと成功させたいし、集客力は大切じゃないですか。何せキャパがキャパですから、絶対に失敗するわけにはいかなかった。だからいわゆる大物と呼ばれるアーティストには、誠心誠意で出演交渉に当たりましたよ。ブッキングは手分けをしましたけど、交渉には全部僕が顔を出しましたね。その時点でロフトで働き出して16年、自分の持ち得る熱意やコネクションはフル稼動させた自負はあります。

10代から60代までがひとつの同じ空間にいた異例のステージ

 最終的にバンド単体として出演してもらったのは、ウルフルズ、筋肉少女帯、シーナ&ロケッツ、SIAM SHADE、スピッツ、CHAR、ザ・ハイロウズ、花田裕之&ROCK'N'ROLL GYPSIES、HOTEI(布袋寅泰)、THE MAD CAPSULE MARKET'S、レピッシュ。後は石橋凌さん、池畑潤二さん、PANTAさん、泉谷しげるさん、柴山俊之さんはRUBYでも出てたと記憶してますが、錚々たる顔触れにセッションとして参加してもらったんです。ロックの縦軸と横軸が交差するセッションこそ、ロフトが用意したステージならではだと思ったんですよ。
 出演してくれたアーティストにはすべて思い入れがありますけど、個人的にはアナーキーの歌を武道館で聴いてみたい気持ちが最初にありましたね。常に反体制を貫くアナーキーの歌がロックの聖地・武道館で轟くのが単純に面白いと思って。悠さんの時代に馴染み深いのはCHARさんぐらいですかね。RIZEのJESSEも出てくれて、この時が確か初の親子共演だったんですよ。
 単体のアーティストがどうこうよりも、僕としてはあの日本武道館でひとつの表現を成し得たという感慨のほうが強かったですね。だって、泉谷さん、柴山さん、凌さんという日本のロックにその名を刻んだ出色のヴォーカリストが一堂に会したわけで、これぞまさに日本のロックの縮図じゃないですか。実行委員のひとりとして携わることができて、こんなに誇らしいことはそうはありませんよ。
 個人的に嬉しかったのは、オーディエンスがずっと残ってくれていたことですね。スピッツが終わったら帰ってしまうオーディエンスはほとんどいなかったですから。キャスティング的にもあの並びで武道館のステージに立つこと自体が異例だったんじゃないですかね。あと、オーディエンスの年齢層の幅が広かったのは良かったと思います。10代から60代までがひとつの同じ空間にいたし、それはつまり日本のロックが成熟したことの表れだったんでしょう。僕自身、そういうイベントを手掛けてみたかったんですよ。
 有り難いことに、チケットは即ソールド・アウト。メディアも事前にとても好意的に取り上げてくれました。ライブハウスが発信する武道館のイベントということで、向こうも面白がってくれたんでしょう。NHKのBSでは4日間にわたってライブの模様を放映してくれましたしね。


LOFTと同じく市松模様になった武道館のステージ。写真は往時のLOFTを牽引したアナーキーの仲野茂。彼を始め、LOFTと縁の深いバンドマンがこぞってステージに花を添えてくれた

「打ち上げ」が武道館成功の根底にあった!?

 武道館の打ち上げはロフトでやったんですよ。僕の中では、この時の打ち上げは“KEEP the LOFT”の時と西新宿LOFTの最後の一夜と印象がダブるんですね。武道館が終わっても打ち上げの仕切りがあったから、ゆっくり酒を呑むなんてできませんでしたよ。楽しむ余裕なんてまるでなかったです。
 今冷静になって思うのは、日本のライブハウスで武道館のイベントを成功できたのはロフトだからこそなんでしょうね。手前味噌は苦手なんですけど(笑)。
 他のライブハウスでは成し得ないことを、なぜロフトだけができたのか? いろいろと理由はあるんでしょうけど、ミュージシャンとの繋がりが深かったことが大きな一因なんじゃないですかね。武道館に出演してくれた面々のほとんどは、当時もロフトで呑んだくれてましたから(笑)。ツアーがあるとロフトに立ち寄って打ち上げをやってくれたり、武道館や大きいホールでライブをやった翌日にロフトに出演してくれるバンドもいましたからね。ロフトがなぜそこまでミュージシャンと絆を深めることができたのかと言えば、打ち上げのできるライブハウスが当時は少なかったことが挙げられると思います。キャラクターの濃いスタッフが多かったこともあるでしょうけど(笑)。
 格好つけて言うわけじゃないんですけど、“ROCK OF AGES 1997”という武道館イベントは、僕の中では単に通過点のひとつなんですよ。ただ、当時は音楽シーンを取り巻く環境もライブハウスの在り方も大きな変化のうねりの中にあったから、そこで20周年という一大イベントをあの時代に刻み込めた意識はありますね。僕としては、この20周年イベントでの経験を通じて、当時の音楽専門誌や一般誌といったメディアとのパイプを強固にできたこと、パブリシティの重要性を実感したことが大きな収穫でした。とにかく、やりきった感は凄く大きかったです。
 みんな手弁当でイベントに携わってくれたし、儲けなんてほとんどなかったんです。それよりもとにかく、新宿LOFTの成人式を成功させたい意地というか、とにかく面白いことをやりたかった。だって、あの武道館をロフトに変えるなんて痛快じゃないですか。「武道館のステージが市松模様になるなんて面白いよね」とか、最初はそんなレベルですよ。ただ、それを本当に実現してしまう醍醐味がありましたね。自分が見たいイベントを仕掛ける、面白いと思うことを真剣にやり遂げる。僕のブッキングマンとしてのスタンスはずっと変わらないんですよ。(談)


LOFTでの打ち上げの1コマ。左からBOφWYの高橋まこと、ルーズターズの池畑潤二、ARBのキースというLOFTを出自としたバンドのドラマー3人衆だ

『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/


ロフト席亭 平野 悠

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