第134回 ROOF TOP 2009年5月号掲載
「大海原をゆくー世界一周103日間(+26日間)の船旅に挑戦」

第8回 ラバウル〜パラオ〜そして日本へ
ロフト席亭 平野 悠

1月5日/航海121日目
<日本に帰って何をなすべきか?>

 今日もまた船の上だ。昨夜ラバウルを出港するときに見えたあの活火山の噴火は、実に見ごたえがあった。暗闇にかすかに見える黒い山影とそれを覆う黒煙。時折、暗闇に赤い火の玉が突き上げられる様にして飛び出し噴火する光景は、まるで映画でも見ているようだった。船は活火山を左に見ながら、ゆっくりと進む。この航海もあと1週間。日本に帰って何をなすべきか?どう会社に復帰するのか? まだ結論は出ていない。
 一人ぽつんと海を見ながら、「もうこの旅は終わるのだ。老兵は静かに去る。痕跡を残さずに。誰ともつるむことなしに私はこの船を降りることを決意しよう」なんて思った。
 朝食時ある被爆者の幹部と話した。「私たちは世界各地で大歓迎を受けました。平和憲法、特に九条は世界中に理解されつつあります。九条をまねる国が多くなっているのも、こういった素晴らしい運動があるからです」「それは素晴らしい。歴史上初めて核兵器が使われ、その被害にあった人たちが押し寄せてやってきた。世界のほとんどの指導者は、会わざるを得ないでしょう。この船に利用されているという意識はありませんか」と、私はちょっと意地悪な質問をしてみた。 「ピースボートの独断で勝手に選ばれて、タダで世界一周船に乗せてやる代わり、ピースボートの言うことには一切文句をつけるなって……」「そんなことはない。ピースボートと私たちはちゃんと話し合っていろいろ決めています。それが素晴らしい結果を生んだんです。一番は国連での私たちの証言、さらには今回の私たちのアクションが、川口元外務大臣や日本政府まで反核に動かす事になった。これはとても素敵な事です」彼はあくまで、ピースボートに対する評価を変えなかった。



船内従業員と乗客のお別れパーティだ。それぞれがそれぞれの立場で感謝の心を忘れない。

1月6日/航海122日目
<旅の終わりまであと一週間>

 ニューギニアを出港し船は赤道を越えついに北半球に戻って来た。昨夜と今夜ぐらいは南十字星と北斗七星が見えるというが、空はあいにく曇っている。
 夜、睡眠薬を飲んだが眠れない。バーへ行きビールと焼酎を飲んだ。この船のチーフディレクター・上野詳法が通りかかった。私は彼を呼び止めて、こう伝えた。
「俺はね、決めたんだよ。そりゃ、この船に腹が立つことはたくさんある。でもね、俺はこのピースボートに乗ってよかったと思っているんですよ。一番最初、ピースボートの活動なんか全然興味ないころ、深夜に馬のお面をかぶった変な男が、若い子達を集めて原爆の話をしているのに出会った。それが川崎哲さんだった。こんなの見たのは初めてだった。ここまでして核兵器の恐ろしさを訴えてる人がいるのかと思ったら、素直に感動したんだ。今の日本、どんな知識人や偉そうに反戦を唱える連中でも、なかなかこんな地味な事やっている人を見かけない。俺は反戦だ、原発はやばい、なんて言っているけど、自分の子供にすらそんな話をほとんどしたことがない。今、俺たち団塊世代がやらねばならないことは、若い子達にあらゆる事を伝えることだと実感したんだ。だから俺はピースボートを支持するって決めたんですよ」
「ありがとう平野さん。日本に帰ったらロフトに行きますよ。酒飲みましょう」「ピースボート、まだまだ脆弱だよね。次の航海ではもっと強度を上げよう。そのためのお手伝いはしたい」私はそう彼に約束した。



上陸・下船の時には必ずピースボートのえらいさんがゲートで笑顔で立ち会ってくれる。
上野チーフディレクター(中央)平沢JG(旅行代理店)チーフ。

1月7日/航海123日目
<若きホープ・伊藤剛さん>

 午後、ピースボート最後の水先案内人伊藤剛氏(『GENERATION TIMES』編集長・NPO法人シブヤ大学の理事)の講座を聴きにいく。比較的若い子の参加が多い。テーマは「平和はいつも伝わらない」(戦争と平和、ここに二つの選択肢があったら、誰もが「平和」を選ぶ。それなのに世の中から戦争はなくならない。なぜ?)」だ。なるほど……、素朴な疑問だ。「新しい時代のカタチを考える」というコンセプトらしい。未来に繋がる様々な企画を手がけている才能あふれる若い人だ。彼は言う。「ボクが今、社会で一番問題だと思っていることは、あまりにも情報が多すぎて皆の思考が停止してしまっていること。すべてが右へならえの世界では危ない。考えるきっかけ、思考を始めるスイッチが必要なんだと思う」。納得、だけどその先が見えない。
 ピースボートにおける水先案内人とは、各界の専門家などの著名人がこのボートに招待され、何回か船内で講演会(講座)を開催し、どこかの寄港地で乗り込み去って行く人たちのことをいう。ちなみにギャラは貰えないそうだ。そのキャスティングのセンスは独特。ピースボートなので、招かれる人はどこかで「平和・環境・核兵器廃絶・憲法九条」なんていうモチーフを持っていなければならないのだろう。
 この63回クルーズに招待された水先案内人は、比較的面白い人が乗っていた。今回も桃井和馬氏(フォトジャーナリスト)や秋山豊寛さん(日本最初の宇宙飛行士)、前田哲男さん(軍事評論家)、高遠菜穂子さん(NGO活動家・イラクで人質にあった)、遠藤秀一さん(南太平洋をフィールドワークしている写真家・NGOメンバー)、石川文洋さん(写真家)たちが乗っていて、彼らの講演はとてもためになって面白かった。だが、こういったピースボート渾身の企画には若い子達はあまり来ない。63回クルーズでは、総勢25人もの水先案内人が、103名の広島長崎の原爆被災者と共に乗船し、各種講演会を開催した。ピースボートと名のっている以上、当然といえた。この船はただのエンタメ観光船とは違うのだ。


1月8日/航海124日目
<最後の寄港地・パラオに着岸>

 最後の寄港地、パラオ共和国・コロールに朝早く着岸。海は静かで、よく晴れている。1527年にポルトガル人に発見されたこの200程の島々も、いまや一つの独立国だ。人口約2万人。その昔は日本の信託統治領だった。今は悲しいかな軍事、防衛、国家財政のほとんどを援助するアメリカの属国みたいになっているという。スキューバダイビングのメッカらしく、高級ホテルもたくさんあるみたいだ。土産物屋も多い。観光客の大半は飛行機で来るのだろう。だが肝心の海や街はあまり綺麗ではない。シーズンオフで観光客は少ない。
 ここでカメラをなくした。ホテルのロビーに置き忘れ、すぐに戻ったがものの見事に消えていた。小さな安物のデジタルカメラなのだが、この数年、私はずっとこれで「おじさんの眼」やブログ用に、日々の全てを撮ってきたので、ちょっと寂しい。
 上陸許可時間は5時間足らず。日系の豪華ホテルで20ドルの刺身定食を食べて、14時には出航する。



船内フォーマルパーティでおばさん達は頑張って着飾る。おしゃれって楽しいんだろうな。

1月9日/航海125日目
<交換日記グループのお別れ会>

 船は一路、パラオからまっすぐに小笠原諸島、そして東京湾に向かっている。パラオを出ると海はとにかく荒れ出した。黒い海。ここから日本までこんな調子の荒波が毎日続くらしい。100日以上船に乗っている我々は、もう少々の船の揺れは平気だ。慣れとは凄い。気の早い乗客が下船準備をし始めている。
 夜の酒場では、お別れ会が頻繁に開かれている。今夜レストランで、私が入会している「オトナの交換日記」グループのお別れ会もある。
 グループ名は私の船内のあだ名をとって「マリオ」ブラザーズ。メンバーは、帰国子女でこの船の通訳のA(30歳)。子供の時から英国に住んでいた同じく通訳のT(26歳)は、国家公務員上級の資格を取っており、この春から官庁に勤める。元インターハイ剣道日本代表のタケゾウ(24歳)、某有名私大を卒業したがみんなが就職して行くのを尻目にフリーターをやっているモサ(24歳)、それに英語教師の音(34歳)と私だ。
 交換日記にはみんな真剣で、誰もがいつも3ページ以上書いてくる。しかもすごく質が高い。次の人に渡すタイムリミットは24時間だから、一週間に一度は回って来る。さらには最低一句作れと要求される(これは私が言い出したことだが)。下手なことを書くと、直ちにその論はみんなの俎上に載せられすぐに反論が寄せられたりする、ちょっとした緊張関係を持った交換日記だった。
 みんなフォーマルに決めてきた。女性陣がとても綺麗だった。

「今日、最後の日記を書いて、次のモサくんに渡したよ。これが最後だね」と私は言った。「短い間だったけど結構充実していたよね」「自分がノートに直接消しゴム持って文章を書くのって、とてもスリルがあって緊張して、ブログなんかを書くのとは違った感じなのよね」「ねえ、これ日本に着いてからも続けられないの?」「どうやって?メールで? mixiあたりでサイトを作る?」「違うの、みんなで宅配便を使ってノートを送るのよ。大変だけれど」「そんなことまでして、この交換日記続ける意味があるのかな?」
「僕は多分、夏前に外国勤務になるから無理だ」と、官僚予備軍のTが言った。ふと会話が途切れると、船員、従業員、ハウスキーパーの人たちが、ハンカチを振りながらレストラン内を音楽に合わせて行進し始めていた。全員が外国人だ。「今まで私たちのために働いてくれてありがとう」「さよなら、お元気で」と、乗客と船で働いている人との、お客、従業員の壁を取り払ったお別れ交流会だった。泣いている人もいる。



絶海の孤島・イースター島に悲しく佇むモアイ像。世界七不思議の一つだ。この島の歴史は悲しい。1600年、人口が増えすぎ草や木や動物がいなくなって、住民同士が食料を確保するために戦争をする。そして疲弊した島に奴隷商人がやってきて島のほとんどの住民は奴隷で売るとばされて行った歴史を持つ。

1月10日/航海126日目
<聴け! 川崎哲を! 迫力があった最後の演説>

 海は大荒れだ。午前中はなにもせず。午後憲法九条活動の最終報告会に出る。NGOピースボート共同代表・折り鶴の会代表世話人・川崎哲(あきら)の最後の、いわゆるこの4カ月間の活動総括講演を聴く為だ。今年5月幕張メッセで開かれた「九条世界会議」の事務局議長をやって成功し、その彼への評価は世界的なものになった。どんな理由があれ、彼らの活動を否定出来るものではないと私は思う。私は川崎哲がこの間何を思い、何をしてきて、何を得たのかを知りたかった。しかし会場は凍りつくように、聴衆は少ない。20人前後か? この参加人数の少なさを前にして、川崎哲は机にうずくまって頭を抱えているように見えたのが、とても印象的だった。このピースボートの絵図だと思った。しかしその最後の講演は短かったが迫力はあった。演説は10分程度で終わった。
 船上漫才大会や運動会にはあれだけの人々が集まり大騒ぎをするが、こういったまじめなテーマには集まらない。日本上陸準備で忙しいのか?
 ピースボート共同代表であり折り鶴の会世話人である川崎哲は言う。「世界で唯一、核兵器の被害にあった日本人は、その体験を通して核兵器廃絶を基本とした九条を世界に広めることが今、世界的な責任があると思っている。そのため私たちはピースボートという船を使って活動している。現実の世界の軍備費は一兆ドルを超えた。世界には今、2万6000発もの核兵器が存在している。この九条という世界に誇れる憲法を持つ日本でさえも、世界3〜4位の軍備費を注ぎ込んでいる。そして世界は今、貧困に苦しんでいる。これが果たして正常な状態なのだろうか? 九条は理想論、非現実的だと言われるが、九条の意味が世界の人々にどのように共有されるのかということを考えて行かねばならない。紛争を予防し、資源を軍備から人々のために回す。平和に生きる権利のシステムを作り上げること。そして日本の現時的な課題は東アジアの平和メカニズムを作ることだ」と。



船でヨガ(太陽礼拝)を一人する平野さん。

1月11日/航海127日目
<ある被爆者からの切実な訴え>

 日本まであと2日。夜、この航海もあと数十時間で終わると思うと何かいたたまれなくなり、揺れるデッキに出た。暗い荒れる海を見ながら少しずつ思い出を振り返ろうと試みるが、あまりうまくいいかない。風と海と星に包まれた120数日だった。海は相変わらず荒れ、この船を揺らしている。
 今日、ある被爆者から、「帰るまでに平野さんにこれを読んで欲しくって」と、匿名手記のコピーを渡された。
「これは、僕が東京に帰ってどこかのマスコミに発表してくれという意味ですか?」と私は聞いた。「いえ、そんな大それたものではないのですが。このボートと私たち被爆者の関係を考えて見ただけです。平野さんたち一般乗客とは違って、私たち被爆者はこの船に無料で乗っています。だから、この船の運営のあり方にほとんど異議申し立てはできないと思うんです。もし許されるならば私達も、この船のあり方について言いたいことはたくさんあるんです」
「このボートは普通の観光船ではありませんよ。被爆者の方々が乗ってはじめて、今回のこの船の目的が達成出来るんです」「そんな風に思っている乗客はほとんどいない。ほとんどの乗客は観光目的で乗っています。この船に100日以上乗って、いろいろなセレモニーに引っ張り出されましたが、私が今までに証言できたのは一回、それも5分だけです。私は今、真剣に悩んでいます。なんのために私はこの船に乗ったんだろうって」
「でも、その観光目的で乗船した人たちも、少しずつ戦争と平和の問題を考え始めています。そして、あなた方被爆者の証言は、世界の核兵器廃絶を願う人たちに多くの勇気を与えてきた。各国の為政者の多くが証言集会に出席した。これは勝利ですよ。核保有国で核開発に熱心なインドで、政府の弾圧をはねのけてやった集会なんか素晴らしかった。こうやって直接100人以上の被爆者の体験談を聞けるのは、最初で最後の機会かも知れません。だから決して無駄ではないと思うのですが」と私は言った。  被爆者の苦痛に満ちた手記には、次のようなことが書いてあった。
「私たち被爆者は、ピースボートの正当性を主張するためにただ利用されているだけなのではないか?被爆者の多くはピースボートの言うなりで、彼らの思惑に沿って集められ数々のイベントをこなし、後は観光と船旅を楽しんだだけでしかなかった気がする。ピースボートが集めた103人の原爆被災者は、ただボリュームだけであって、その証言の質はほとんど関係なかった。世界中のメディアや政治家、市民団体にインパクトを与え、国連演説でも注目を集めることが目的で私たちは集められた。噂だが、ピースボートがノーベル平和賞を狙っていると聞く。受賞すれば年々乗客が減っている状況に計り知れない効果がある。こうしてピースボートへの不満が不信となりふくらんでいった。今回のクルーズが私自身の被爆体験をじっくり振り返るきっかけになったのは確かであるが……」。素朴な疑問を綴った手記だった。
 私もまた、相変わらずピースボートとは何なのかを考え続けている。ピースボートという非営利団体のNGO、その組織と一体のJG(ジャパングレイス)という旅行代理店。一回の航海で約15億円近くの巨大なお金が動く。それを毎年、3航海もやっている。
 平和をテーマとしたこの船は、一体どこへゆこうとしているのか?
ピースボートには、平和、核兵器廃絶という表題とは別の、世界一周格安クルーズというもう一つの顔がある。しかしそれを目的とした乗客(個室)が、400〜500万円という料金を払ってくれなければ、100人以上の被爆者を無料招待もできなかっただろうし、世界各地での彼らの活動(青年交流やサッカーボールや書籍を配ったり)も平和活動も国連出席なんかもできなかっただろう。



モナリザ号全容。1966年建造(イギリス)28991トン。20ノットで走行。

1月12日/航海128日目
<揺れる船も今日で最後、明日は日本だ>

 今日も海は荒れている。船はもう小笠原諸島を通過したのだろう。海上から吹く風がどこか湿っているように感じられ、それで日本が近くなってきたように思えた。
 この船は、明日の朝には東京の晴海埠頭に着いている。日本に着いたときの感激ってあるのだろうか?
早く降りたいという気持ちと、まだこの船に乗っていたいという気持ちが交錯し、なんだか頭が空っぽの状態が続いている。この船の120数日間の総括をしなければいけないと思うが、何も書けない。下船作業に忙しい船内の風景。誰も彼もが何箱もの段ボールを抱え、あくせく動き回っている。
 私の下船準備は30分で終わった。ちょっと大きめのバッグで乗船したのだが、なぜか乗るときよりも降りるときの方が荷物が少なくなっていたのは嬉しかった。持ち込んだ沢山の本は、図書室に無断寄付した。おみやげはほとんど買っていない。
 今日こそは誰とも話したくない気分だった。じっと海を見ながら、過ぎ去ったこのクルーズの日々を思い返しているのが一番いい。お別れの挨拶はしないのが私の主義だ。いつの間にか忘れられている存在がいいと思う。この船から忽然と消えるにはどうすればいいのか考えている。
 部屋に戻り、鏡を見る。ゆがんだ60数歳の自分の顔があった。この4カ月で白髪が増えたようだ。丸い船室の窓に冬の海のしぶきがかかる。船室はなんとなく、がらんとして寂しそうに見えた。

 下船後のことで一番始めに浮かんだのは、街の銭湯だった。明日の夜には、町の行きつけの銭湯に入れる。そこには裸の市井の連中がいる。船上では、毎日10分程度のシャワーしか浴びていない。早く銭湯に入りたいと痛切に思った。
 二番目に思ったことは自分の社会復帰だった。会社には、おいそれとは帰れないと思っていた。何か私が会社に戻るための「大義名分」をでっちあげなければと思った。4カ月以上留守にし、ほとんど連絡も、会社の業務も全く放棄した中での会社復帰。ちょっと辛いものがあるかな、と覚悟した。
 三番目はかみさんと猫のことだ。かみさんはともかく、猫ははたして、私のことを覚えているのだろうか? 心配になった。

 それにしても、4カ月半は長かった。私は船上のいたるところで、意気揚々と過去の若者時代の話やロックや旅の話を若い連中にしてきた。たくさんの若者達がマジで聞いてくれた。ノートで筆記する若者もいた。私の周りには前向きなポジティブな連中が多かった。そして、60歳過ぎのオヤジが、間違っても実らない淡い小さな恋も体験した。それもこの不思議な密室空間だったからだと思う。三食昼寝、ハウスキーパー付きの客船で4カ月半。途中、船内生活もめんどくさくなり、何度か帰ろうと思ったこともあったが……。
 とにかく明後日から、日本での日常が始まる。(次号最終回に続く)


復活!今月の米子

復活今月の米子・明日の勝利を信じるゲバラと記念撮影だ。下に「葬式無用・戒名無用・散骨」と白州次郎の言葉が書かれている


『ROCK IS LOFT 1976-2006』
(編集:LOFT BOOKS / 発行:ぴあ / 1810円+税)全国書店およびロフトグループ各店舗にて絶賛発売中!!
新宿LOFT 30th Anniversary
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/30th/index.html


ロフト席亭 平野 悠

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